ETAの歴史

スイス最大のムーブメントメーカー

長きに渡ってスイスの時計産業の中心的存在でありながら、常に裏方に徹してきたETA。
ここではETAがどのようにしてその圧倒的な影響力を持つに至ったかについて、その歩みを辿ってみたいと思います。

スイス時計産業の分業制について

スイスの時計産業が1950年代以降、国際的な時計市場において圧倒的なシェアを握った背景には、分業制による効率的な製品の生産を背景とする、コストパフォーマンスの高さがありました。ETAはそんな分業制の中で生まれてきた企業の一つであったのです。

ETA 刻印

スイス時計産業のなりたち

一般的に知られる通り、スイスに時計産業他、精密機械産業が根付いたのは、雪と氷に閉ざされる長い冬の間、農家、酪農家達の間に、自宅内で作業が可能な内職が根付いたことが大きかったといわれています。そんな農家や酪農家の人々の間には、そのまま副業を本業に切り替えたり、近所どうして集まって工房を開いたりする人たちもいました。

こうして徐々に工房が増えていき、やがて産業として形成されていくことになりますが、スイス時計産業もまた、こうして様々な地域に根付いていった産業の一つであったのです。スイスの時計産業は古くから、以下の3種類の企業によって成り立ってきました。

  • 〇ゼンマイ、テンプ、ネジ、歯車など一部の部品に特化したメーカー
  • 〇ムーブメントの半完成品(エボーシュ)や、完成品を供給するメーカー
  • 〇完成品の時計組み立てメーカー(エタブリスール)

ムーブメントの開発から組み立て、販売までもを自社で行う、いわゆるマニュファクチュールを名乗るメーカーも少なからず存在していますが、注意すべきことは、全ての部品に渡って、全くサプライヤーを利用しないメーカーはまず無い、と言っていいことです。以下に、現在のETAの原形となった、エボーシュS,A,の成り立ちから振り返ってみましょう。それは第一次大戦の時代にまで遡ります。

第一次世界大戦が落とした影

1914年に勃発した第一次世界大戦により、時計工房の多くが軍需工場へど様変わりしますが、終戦後はまた誰もが時計製造に戻ろうとしました。その結果、部品やエボーシュ等のにわかな供給過剰が発生、当時は全体を取り仕切る団体が無かったために、多くのメーカーが方向性を見失い、大量に積まれた在庫を安く海外に流して現金化しようとしました。

こうして安価に部品やエボーシュを手に入れたアメリカをはじめとする時計メーカー達は、大量に安価で高品質な時計を製造、結局はスイスの時計産業の競争力を大幅にダウンさせ、更に自らの首を絞める結果を招いてしまったのです。

これに加えてスイスの一部の銀行による無頓着な与信管理が更に追い打ちをかけ、1920年代半ばにはスイスの時計業界は約2億スイスフランの負債を抱えるに至ったといいます。

エボーシュS.Aの設立

この流れを断ち切る為に1924年、スイス時計産業の約3/4を束ねるスイス時計連盟(FH)が発足、そして1926年にはA.シールド社、フォンテンメロン社、A.ミシェル社という当時の3大ムーブメントメーカーによって企業信託、エボーシュS.A.が設立されました。

これらの会社が自分たちの為に設定した3つの基本的なルールによって、この協力関係は非常にユニークで重要なものとなりました。

  • 第一に、3人の創業者全員が自分たちが最良と考える経営を行う権利を維持する一方、同じ価格を設定することに合意、これによって過剰な価格競争を抑えることが出来るようになりました。
  • 第二に、製造の最適化と関連コスト削減のためにムーブメントの部品の標準化が行われました。
  • そして第三に、1928年12月、参加企業のいずれかが外国企業に部品を販売する脅威を排除する試みとして、彼らはムーブメントの部品の輸出を強く規制しました。

1927年にはランデロン社やフェルサ社、ヴィーナス社などもエボーシュS.A.に参加、1930年代の初頭までにはスイスにあったエボーシュメーカーの約9割以上がエボーシュS.Aに参加したといわれています。
その当時のエボーシュS.A.への参加企業は、

  • ア・シールド社
  • フォンテンメロン社
  • ランデロン社
  • ア・ミシェル社
  • フェルサ社
  • ベルノワーズ社
  • ヴィーナス社
  • ユニタス社
  • フルリエ社
  • プゾー社
  • レユニ社
  • べトラッシュ社
  • シェザール社
  • デルビ社
  • ヌーベル・ファブリーク社
  • バルジュー社

また時計の組み立てメーカー達もエボーシュS,A,の利点を認め、1930年にはオメガとティソが合併してSSIHグループを設立、さらには1932年にはレマニア社が加わりました。

世界大恐慌

しかしエボーシュS.Aによる巧みな協力体制をもってしても、1929年の金融危機に端を発する世界恐慌による打撃から逃れることは出来ず、1930年代初頭には約2万人もの時計技術者が職を失う事態となりました。
エボーシュS.Aはスイスのムーブメントメーカーの大半を統合し、経営の自由度を拡大しましたが、参加者が集団で従うべき方向性を定義する機能はありませんでした。
そこでスイスのムーブメント製作の全体を統括し、規制する力を持った別の組織が必要となり、1931年にスイス時計産業総局(ASUAG)が設立されたのです。
ASUAGの設立に必要であった5,000万スイスフランのうち、1,350万スイスフランという高額な資金がスイス連邦から提供されました。
ASUAGはその強力な資金力を以て、業界の効率改善の為に動き出しました。

エタ社のはじまり

1929年の金融危機発生の時点で800人以上の従業員を抱え、年産200万個以上を誇る大手メーカーへと成長していたエテルナは、周囲のどの企業よりも深刻な経済的な打撃を受けていました。当時のエテルナを運営していた創業者の息子、テオドール・シルトは、ASUAGやエボーシュS.Aとの合併が自身の会社にとってプラスになるとのビジョンを持っていましたが、合併によって自社の経営上の意思決定の自由を損なう可能性があること、またエボーシュS.Aはエボーシュメーカーの為のものであり、自社のような時計メーカーのものでは無いことを懸念しました。

そこでテオドールは自社のムーブメント製造部門を本体から切り離し、新たにETAとして設立して、ASUAG/エボーシュS.Aと合併の合意を得ました。エタ社はこうした危機的な状況が無ければ生まれてこなかったのかも知れません。

ASUAG内での分業体制

ASUAGはムーブメント製造を3つのセグメントに分けました。手巻きムーブメントをフォンテンメロン社、フルーリエ社、ユニタス社等がクロノグラフはバルジュー社やヴィーナス社等が、そして自動巻ムーブメントはETAをはじめとする他の会社が担当しました。

ETAは技術研究に余念がなく、1948年には自動巻のローターの軸を5つのボールベアリングで受けることで巻上げ効率を改善したエテルナ・マティックを発表、経済的成功に恵まれました。またETAは、1948年に時計製造学校を設立、1950年代以降、技術者、技能者を養成して自社で採用するというサイクルを生み出し、産業の発展に大いに貢献したのです。

その後ASUAG/エボーシュS.Aは見事に機能し、スイス時計業界は1970年代の初頭にかけて、おおむね順調な時代を過ごすことが出来ました。

クオーツ・クライシスとオイルショック

時は流れて1969年12月25日、日本のセイコーが世界初となるクオーツ腕時計、アストロンを発売しました。

セイコーアストロン
画像:セイコー アストロン

当初は大変に高価であったクオーツ時計は量産に適した構造を持っていたことから、量産技術の目覚ましい進歩と共に見る見るうちに低価格化し、実用性の面において、機械式時計を完全に過去のものとしてしまったのです。

またもう一つの危機は1973年に始まりました。第一次オイルショックによって景気が後退してスイスフランが高騰、コストを下げる技術力を持ち合わせていなかった当時のスイスの時計メーカー達は、時計の国外の価格を上げ続けるしかありませんでした。

これらの痛手によって1970年に80%を越えていたスイス時計の国際シェア率は1975年には58%、1983年には15%にまで落ち込み、1970年に89,000人いた雇用者は1985年には33,000人にまで激減しました。その間のASUAGの損失だけで4,400万スイスフランを越え、かつて130種類以上のバリエーションを誇ったエボーシュS.Aのムーブメントは僅か40種類を残すのみとなりました。またSSIHにおいても1974年に1,240万本あった売上本数が1982年には190万本にまで激減、スイス時計産業の全体がまさに崩壊の危機に瀕していたのです。

黒字回復を目指して

1982年にエボーシュS.Aは、ASUAGとSSIHの合併に関する交渉が進行中であったにもかかわらず、全てのエボーシュメーカーをETAに吸収することを決定しました。

そしてETAには大小様々なエボーシュメーカー達が培ってきた技術や伝統が全て集約され、史上最強のエボーシュメーカーとなったのです。その後1983年にはASUAGとSSIHが遂に統合され、1984年にやっとの思いで黒字回復を実現したのです。

スイス時計業界消滅の危機

しかしその結果は、ASUAGとSSIHの存続の為に9億フラン以上を注ぎ込んできたUBS、クレディ・スイス、スイス・バンク・コーポレーションらを満足させるものではなく、これらの銀行はスイスの時計製造は絶望的、との見方を変えることはありませんでした。

そんなところに、とある日本人からASUAG/SSIHの買収に関する寛大な提案を持ちかけられ、その思いはさらに強まりました。もし本当にその日本人にこの2大グループを売却してしまったら、スイス主要メーカーが持つ特許やブランドのほとんど全てを渡してしまうことになります。

しかし銀行はそんなことを構う様子はなく、ハイエック・エンジニアリングAGという一流のコンサルタント会社に、早急に売却の手続きを進めるよう、依頼しました。

ニコラス・G・ハイエック
画像:www.swatchgroup.com

ニコラス・G・ハイエックの逆襲

しかし、そのコンサルタント会社の社長であったニコラス・G・ハイエックは、自分たちがこのまま話を進めれば、スイスの時計製造の伝統の全てが自分の監督下で外国に売却されてしまう、という事実に激怒したのです。

「スイスにとって時計製造は伝統文化そのものだ、他の国に売却するなど、とんでもない!」

ハイエックは反撃を決意しました。

SWATCHの誕生

彼はこの状況を打開できるのは高級時計ではないと判断、そして運命を賭けて考え抜いたプラスチック製のクオーツ時計は、自分の個性やライフスタイル、気分を表現できるセカンドウォッチとして、50ドル以下で販売すべきと考えました。

その基本的な構造は1978年にETAが製作した超薄型時計、デリリウムに用いたアイディアを転用して全パーツ点数を51点にまで絞り込むなど、徹底したコスト管理が図られました。

スウォッチ
画像:www.swatch.com

ハイエックはこれをSwiss + Watchから”SWATCH(スウォッチ)”と命名、勝負に出たのです。その結果は誰もが知る通り、売上本数も初年度1983年が110万本であったのに対して、1992年には1億本を突破する大ヒット作となりました。

1985年、ハイエックはスウォッチが生んだ莫大な収益によってAUSAG/SSIHの51%を買取り、スイス・コーポレーション・フォー・マイクロエレクトロニクス・アンド・ウォッチメイキング・インダストリーズ・リミテッド(SMH)として再編成、さらなる合理化を目指しました。

械式時計、復権の時代

1986年以降、豊かさを手に入れた人々は、腕時計に秒単位の精度よりも、機械式ならではの温かみや高度な職人技が作り出す複雑なメカニズム、そしてステイタスシンボルとしての魅力などを再発見し、機械式時計を見直そうとする動きが顕在化を始めました。

実際にスイス時計の輸出額は1986年から1994年にかけて倍増しており、そのまま2008年のリーマンショックに至るまで、常に右肩上がりの状態が続きました。これはハッピーなストーリーのように見えますが、水面下で常に戦略的な計画が進行していなければ、ここまでの大逆転劇には繋がらなかったでしょう。

最強のマニュファクチュールを目指して

SMHグループは、ムーブメントの製造や研究関連のコストを管理し、一層の効率化を図る為に、ムーブメントの開発や製造をETAに集中しました。実際にSMH傘下のロンジンやオメガなどは、自社製ムーブメントの開発・製造を大幅に削減、または中止して、ETAから購入したムーブメントを使用するようになり、ムーブメントの研究開発費が不要となった分を、マーケティングに投下するようになりました。

その一方でSMHはETAをより強力なサプライヤーとするべく、投下可能な資源の多くをETAにつぎ込み、ムーブメントや文字盤、ケース、リューズなどの製造業者、組み立て会社などを次々と傘下に収めながら、エタ社を出来る限り多機能なメーカーになるように努めました。
ETAはスイス時計業界最強のマニュファクチュールへと変貌を遂げたのです。

二バロックス-FAR社の存在

そしてもうひとつ、多数のETAの子会社の中のひとつである二バロックス-FAR社は、スイスの時計メーカーの中で、ヒゲゼンマイを大量生産する為のあらゆる困難を克服出来る唯一無二の会社であり、その他にも脱進機や主ゼンマイ、その他小さなネジや歯車など、様々なパーツの製造技術を持っています。

ヒゲゼンマイ ヒゲゼンマイ

現在でこそ、シリコンヒゲゼンマイの普及によって多少事情が変わってきましたが、合金製のヒゲゼンマイに限って言えば、二バロックス-FAR社が提示可能な価格よりも安価に、安定したヒゲゼンマイを生産できるメーカーはスイスには無いといわれています。

仮に自社ムーブメントを開発したとしても、ヒゲゼンマイをはじめ繊細な精度の必要な部品を自社で製造できるメーカーはほんの一握りであり、ほぼすべての時計メーカーが二バロックス-FAR社からヒゲゼンマイをはじめとする幾らかのパーツを仕入れざるを得ないのです。その結果ETAは、SMHの全ブランドだけでなく、業界内のほぼすべてのブランドにムーブメントやその部品を供給する唯一のサプライヤーとなりました。そしてその優位性はかつてない程に強固なものとなったのです。

スイス時計産業で最強の存在へ

SMHは1998年、スウォッチグループに改名しましたが、ETAの圧倒的なシェアに変化はありませんでした。2001年のスイス時計産業の総輸出額が105億1700万スイスフランに対して、スウォッチグループの生産部門の売上、すなわちETAとその子会社の合計の売上高は13億9200万スイスフランに達しました。すなわちETAとそのグループの売上高は、時計業界の輸出額の13%程度を占めていることになります。

部品やエボーシュの価格が、時計の販売価格のどのくらいの割合を占めるかを考えれば、この13%がどれだけ大きいものかを想像出来ると思います。

加速する一極集中

21世紀初頭、多くのブランドの復活や新興ブランドの参入がありました。高品質で信頼性が高く、カスタマイズも容易なムーブメントがいつでも手に入るなら、1,000万スイスフランかかるかも知れない自社製ムーブメントを開発するよりも、ETAにムーブメントを売ってもらい、開発費用が不要になった分をマーケティングに使った方がより効率が上がるでしょう。

エタ ムーブメントパーツ

実際に多くのメーカーがこのような当然の理由でETA製のエボーシュを選択、一極集中を促進しました。
これはETAやスウォッチグループにとっても良いことのように見えますが、実際は違っていたのです。

集中し過ぎた故の問題

スイスの競争委員会(通称 コムコ)は、ETAと二バロックス-FAR社は独占的な立場にあるため、誰に供給し、誰に供給しないかを決定する自由はない、との裁定を下しました。もしETAが他社への部品やムーブメントの供給を止めれば、影響を受ける企業は事業の継続が困難になり、廃業に追い込まれる、というのが当局の推論でした。

確かにETAは過去に2度、膨大な数の工房や会社を吸収しています。一度目はASUAG内の全ムーブメントメーカーを吸収した時、そして二度目はハイエックがETAの事業拡大を目指して資金をふんだんに投下した時です。ETAはもはやスイス時計業界全体のサプライヤーとして見られていた為に、もし外部の企業に売らないと決めたら、独占禁止法違反になってしまうリスクがあったのです。

またスウォッチグループは、スイス当局の調査なくして値上げを許されていなかったことから、スウォッチグループはムーブメントを売っても利益率を上げることは出来ず、常に当局の厳しい規制を受けていたのです。

2002年、ETAによる供給削減を発表

エボーシュやムーブメントは様々な時計メーカーによって購入され、高品質な偽造品に組み込まれたり、またスイスのメーカーによって、自社独自のムーブメントであるかのように伝えられたりすることが多かったのです。

ETAムーブメント

これはハイエックやETAにとって、とても歓迎できることではなく、更にスウォッチグループの利益の中で、エボーシュやムーブメントの販売が占める割合は微々たるものであったのです。

2002年8月、スウォッチグループは外部企業へのエボーシュやムーブメントの供給量を大幅に削減し、2005年までにこの事業を完全に停止したいと発表しました。当然ながらこれに対して業界は大いに動揺し、コムコは直ちに介入してきました。結果として、エタ社は2008年までエボーシュの供給削減を見合わせること、そして2011年までは完全停止しないことに同意することになりました。

ムーブメント闘争

そして2011年、スウォッチグループはコムコに改めて競合他社へのムーブメントやパーツの供給削減の許可を求め、裁判が始まりました。ETAが供給してきたムーブメントは設計から年月が経っているものばかりで、それらに関する特許はとっくに失効しているためにクローンを作るのは比較的容易です。

実際にETAの下請け業者であるセリタをはじめ、ETA製のムーブメントのクローンの製作実績がある会社の存在を指摘し、他の業者からも同等品の調達が可能として、連邦行政裁判所は2012年末までに完成品のムーブメントの供給量を2010年の85%まで削減することを認めました。しかし二バロックス-FAR社の供給する部品については代替がきかないことから、供給削減は時期尚早との判断が繰り返されました。

2020年、ETAのムーブメントの供給義務が消滅

そして機械式ムーブメントについて2014年7月、供給量を2014年、2016年、2018年と三段階に渡って削減していき、2020年以降はETAのムーブメントの供給義務が消滅することでコムコとスウォッチグループが同意に至りました。

スウォッチグループ外の反応

いずれにせよ、スウォッチグループ外のウォッチメーカー達は、今後はETAの協力を得られない可能性が高い事だけは明らかであり、その反応として、実に様々な対策が講じられるようになりました。

セリタ、ソブロードのムーブメントメーカーが挙ってETAのクローンの販売を拡大、多くのメーカーに供給するようになり、IWCやタグホイヤーといった大手メーカーをはじめ、今や多数のメーカーがセリタ等のムーブメントを使用するようになりました。

セリタ
画像:www.sellita.ch

またジャガー・ルクルトや、ゼニスなどの自社製ムーブメントを製造してきたメーカーからムーブメントを買ったり、デュボア・デプラやヴォーシェ・マニュファクチュール等の作るモジュールを利用するメーカーもありました。

自社製ムーブメントの時代へ

また余力を持つメーカー達は挙って自社製ムーブメントの開発に取り組むようになりました。これはスウォッチグループ内外、ETAとの協力関係の継続の可否にかかわらず、他社との差別化の為に、また多様性を増すばかりの目の肥えていくユーザーのニーズに応える為にも、ミドルレンジ以上のブランドはもちろん、エントリーラインのブランドにまで広く浸透していきました。またそのコスト分散のために、ラグジュアリーブランドのグループ内での技術提携をはじめ、グループに属さない複数のブランドによる技術提携も行われるようになりました。

そしてそんな多様化が進む時計業界の中でも、コーアクシャル脱進機への移行や、シリコンパーツの実用化とエントリーラインにまで及ぶ普及、さらには超耐磁性能の開発やマスタークロノメーターの制定など、常にETAはオメガをはじめとするスウォッチグループのウォッチメーカー達と共に、業界を牽引し続けてきたことは、特筆に値するでしょう。

スウォッチグループ ウォッチメーカー
画像:www.swatchgroup.com

この現象は、豊かさを増していく国際社会において、時計の価格の上昇を許容できる客層が厚さを増していく中で、更に加速していきました。

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加藤

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